農業青年の主張!
2012年2月 9日(木)

平成23年度 東北・北海道地区JA青年大会 JA青年の主張発表 最優秀賞受賞作品

(のら)主 義(イズム)

 

JA秋田ふるさと青年部増田支部 佐々木拓哉

 

 

私の住んでいる横手市増田町は、県内一の果樹産地で、我が家はリンゴ・モモ・米を生産する専業農家です。父はJAリンゴ部会長、母は女性部役員、そして妹はミスリンゴとして、JAの様々なイベントに協力し、リンゴの販売やPRに貢献しています。

しかし、長男である私はただの家事手伝い。会社に勤めたこともありましたが、人よりも覚えが悪く、ミスを連発し、会社に居られなくなった私は、逃げるように実家に戻って来たという、情けない履歴書を持っています。決まった給料が貰えるわけでは無かったので、こづかい欲しさに、地元のトラクター組合と、JAフルーツセンターでアルバイトを始めました。

ところが、トラクターもろくに運転できず、組合員の田んぼを潰したり、フルーツセンターの冷蔵庫にフォークリフトで穴をあけたりと、今でも語り継がれるような失敗をたくさんして、周りの人からの冷たい視線を毎日浴びていました。 

「こら!ちゃんとやれ!」

「何やってんだ、このノラ!」

「それ、さっきも教えだべ!」

 ここでも、勤め時代と状況は全く同じ。

「やべぇ、オレの居場所ねぇ・・・」 

そんな時、青年部の先輩から「神奈川さ田植えしに行がねが?」と誘われました。

それは青年部の一大事業、「田んぼの学校」です。神奈川県の小学校で、子供たちと一緒に田植えと稲刈りを行うというものです。

今思えば、この事業に参加して青年部に入ったことが、私の人生を変えるきっかけになりました。

先輩達は、丁寧にわかりやすく、しかも楽しそうに農業のことを教え、子供たちと積極的に関わっていました。それに比べ私は、子供たちにどう話したらいいのか分からず、ただその場でボヤッと立って見ていることしかできませんでした。

「ちっくしょう!情けねぇ!何とかしてやる!!」

 でも、どうすればいいのか分からずJAの担い手担当者に相談すると、果樹試験場の研修制度を教えてもらい、研修することにしました。

 研修を始めたころは、作業に時間がかかったり、覚えるのが遅かったりと相変わらずでしたが、少しでも学んだことを生かすために、休みの日も家で仕事の手伝いをするようにしました。青年部の行う摘果講習会や剪定講習会などの事業に意欲的に参加したことで、ただ難儀だと思っていた農作業が少しずつ理解できるようになり、早く自分の手でリンゴを作りたいと思い始めました。

2年間の研修が終わり、就農した昨年、年明けから止むことなく降り続いた豪雪によって、我が家のリンゴの木はすっぽりと埋まってしまいました。わずか2週間程で、3m近くも積もった雪により、枝が引きちぎられ、壊滅状態となったリンゴ畑。掘っても掘っても積もる雪に、もう何度逃げ出そうと思ったことか・・・。幼い頃から一緒に育ってきたこのリンゴ畑を無くしてしまっては余りに悲しいことだと思った私は、朝から晩まで黙々と雪を掘り続けました。

8代かけて築いてきたこの土地、この地域の宝であるリンゴ畑を守らなければという強い使命感と郷土愛が、私の中に芽生えました。

手伝いに来てくれたJA職員と共に私は懸命に雪を掘り、電動ドリルやボルトナット、カスガイなどの大工道具を持ち、とても果樹農家とは思えない恰好で、折れたリンゴの木の修復に努めました。

そんな中、あの大震災が発生。

私が住む地域でも、電気や水道が止まり、ガソリンなどの物流も滞り、様々な食品で溢れていたスーパーの棚は一瞬にして空になりました。電気が復旧してすぐに、東京の親せきから、「食べ物が全然ない。大至急、食糧を送ってほしい」と電話が入りました。

ふだん、何気なく口にしている食べ物。それが手に入らなくなるということが、どれだけ人々の生活に、そして世の中に影響するのかということを目の当たりにしました。

 人が生きていくうえで最も重要な「食」を根本から支え、人々の命に携わっている「農業」という仕事は、とても尊い職業であると感じました。

 同時に、主食ではないリンゴやモモを作っている私は、消費者にどのように関わっていったら良いかを初めて考えるようになりました。

昨年、「田んぼの学校」に参加するために、自ら進んで手を挙げ、4年ぶりに神奈川県の小学校へ行ってきました。

授業が始まると、私は無我夢中で先輩たちに混じり、気が付くと子供達と一緒に泥んこになっていました。 

子供たちも徐々に自分を受け入れてくれ、キラキラした目で、私にたくさんの質問をしてきました。私はその質問に一生懸命答えました。

「お兄さんありがとう、手紙書くから読んでね」

「秋田に行きたいなぁ」

という声に、「青年部へ入って良かった、農業をしていて良かった。」という気持ちでいっぱいになりました。もっと多くの人達と関わり、消費者にとって身近な存在になりたいと思う様になりました。

この事業に参加するまでは"農業=モノを作って売る"という単純な発想しか無かった私ですが、青年部の食農教育を通じて農家の重要な役割に気づきました。それは、"農家と消費者が一緒に作物を育てることで、農業の大変さ、面白さを消費者に知ってもらう。それを伝え続けることで一人でも多くの人に食と農業への関心を持ってもらえるようにすること"です。 

その役割を果たすために、生産者と消費者、そしてJAを巻き込んだ新しい農業体験のスタイルを確立することが必要だと私は考えました。その取組について、JA秋田ふるさとに提言します。

そのスタイルは、名付けて「野良(のら)主義(イズム)」。

野良(のら)主義(イズム)」とは、観光を兼ねて農家や農家民宿に泊まり、一緒に野良仕事をしてもらうという、私が考えた言葉です。

JAが窓口になって、受け入れ農家は登録制とし、行政にも協力を依頼します。  

そして、野良(のら)主義(イズム)受け入れ農家が独自の企画をし、現場の管理・接客を行います。幸い横手市は、交通のアクセスは良いし、かまくらや桜祭りなど観光資源も豊富にあります。そして何より様々な農産物を作っている農家がたくさんいるので、特色あるおもしろい企画がどんどん生まれると思います。

 

私の計画案を申し上げます。

一つ、野良(のら)主義(イズム)受け入れ農家に登録します。

一つ、収穫作業だけでなく、それまでの難儀な野良仕事も、分かりやすく、 丁寧に指導します。

一つ、年に何度も来ていただけるような魅力ある体験コースを設けます。

一つ、作業の後は、地元の温泉で裸の付き合いをしてもらいます。

 

我が家で栽培している果樹は、年間を通して様々な仕事があります。受け入れ農家に登録したあかつきには、収穫までの野良仕事に加え、冬は山のリンゴ畑までスノートレッキング、夏は乗用草刈り機でのレースなど、楽しい企画を考えています。

昨年新たに、モモ10a、リンゴ30aを増やしました。収穫できるまで早くてモモは3年、リンゴは5年かかります。もぎ取り体験だけでなく、苗木が成木になっていく過程も見せたいと思います。

子供達だけでなく、大人も巻き込んで、農業の魅力や大変さ、さらに、この地域の温もりを理解してもらえるよう、精いっぱい頑張ります。

今はもうただの家事手伝いではありません。目標を持った担い手としての第一歩を踏み出しました。この「野良(のら)主義(イズム)」というスタイルで地域に、そしてこれからの農業に貢献していきます!

 

 

2010年4月 7日(水)

相  伝  ~農を継ぐ者~

(平成21年度発表)

JA秋田ふるさと青年部増田支部  平良木 優

 

「三郎兵衛の若旦那!」

 

じいちゃんを知っている人は、私をこう呼びます。

それは、今は亡きじいちゃんの存在が大きかったからです。

 

じいちゃんは畑仕事が好きで、地域では野菜作りの名人と評判でした。仕事は、ものすごくまじめで、現役バリバリだった頃、りんご作りも上手で地元でも指折りのりんご農家だったそうです。

どこに行っても、「俺だ」の一言で通用するほど有名でした。

 

今では考えられないことですが、じいちゃんはバイクの荷台に野菜コンテナをつけて、幼い私をいつも乗せていました。

何度か落とされ、病院に運ばれたこともありました。

そんなじいちゃんですが、麦わら帽子を被り、一年中真っ黒な顔で鍬を持つカッコイイ姿は、幼い私には憧れの存在でした。

 

「よ~し!大きくなったらじいちゃんになる!」

私が将来の夢を見た瞬間でした。

 

私の住む横手市増田町は、りんご、さくらんぼ、桃などの果樹栽培の盛んな地帯です。

我が家も古くからりんごを栽培する農家で、長男として生まれた私は当然、農家になるものだと思っていました。

 

そんな私は、地元の高校の農業園芸科を卒業後、岩手県の落葉果樹研修所で基礎知識を、秋田県果樹試験場で剪定、摘果などの栽培技術を学びました。

そして平成11年の春、幼い頃の夢だった念願の就農を果たしました

 

現在我が家では、水稲、そば、りんご、さくらんぼ、桃、そしてトマトの6品目を栽培しています。

我が家がここまでの複合経営に至ったのは昭和45年に始まった減反政策によるものでした。

減反をきっかけに水稲からりんごへの転作をし、さらに昭和63年、当時の農協の発案により、さくらんぼ栽培に取り組むことになりました。

 

さくらんぼといえば「食べる宝石」と言われ、高収入という大きな魅力がありました。

親父は「夏のちょうどいい頃に金が入るな」と、すぐに取り組み、水稲、りんご、さくらんぼの複合経営が始まりました。

私が就農したことで人手が増えたのを期に、さらに桃を導入、これで6月~11月までの長期間、安定した収入を得るという形ができました。

 

親父の仕事に対するひたむきさと、新しいことに挑戦する姿に刺激され、「親父に負けずに俺もなにかやってみよう!」と決心し、毎日のようにJAに通い、何が良いかと相談したところ、JA担当者から「野菜やってみねが?」とアドバイスを受けました。

 

今まで果樹ばかり学んできた私には、思いもよらない言葉でしたが、「そう言えば小さい頃、じいちゃんの畑で野菜作りの手伝いしたっけな」と懐かしさを感じたと同時に、心の中にあった何かが吹っ切れました

 

私は、家の経営状況を見直し、有効利用できるものが無いか考えました。

「あっ!育苗ハウスがある!」

ハウスの遊休期間を利用し野菜栽培に取り組むことにしました。

JA担当者から反収と利益率の良いトマトの話を聞き、「これだ!」と思いました。

 

さっそく、青年部盟友のトマト生産者に話を聞き、私も育苗ハウスを利用して始めました。

しかし聞くとやるとでは大違い・・

小さな規模ではコストだけがかさみ、小遣い程度にもならず、落ち込みました。

 

「その程度の規模でやっててもダメだ!それじゃあ趣味の園芸だ!」

 

盟友に相談したところ、さらに、ダメ出しを食らいました。恥ずかしさと悔しさが入り混じった、初めての挫折でした。

 

私の農業魂に火がつきました。

 

「ちくしょう!よし、じゃあもっとやってやる!」

 

私の思いを親父にぶつけると、しばらく黙り込んで「わかった。その代わりトマトの経営はおめ全部やれよ」

返事はその一言でした。

 

規模を一気に10倍に増やし、本腰を入れてトマト栽培を始め、現在の新しい複合経営が始まりました。

JAのトマト部会にも入り勉強会や巡視会にも積極的に参加していますが、納得のいく結果が出せずにいます。

しかしこれも「農業の楽しさ」とプラスに考え、自分を奮い起こし、いずれは我が家の主力品目になるよう日々精進しております。

 

親父の逆手を取って育苗ハウスの有効利用でトマトを始めたつもりでしたが、なんと私が増設したトマトハウスの遊休期間で親父は育苗を始めたのです。

親父は水稲の小作を増やし、私の逆手を取って育苗ハウスとして利用しています。

抜け目の無い親父のしたたかさを今では心から尊敬しています

 

これだけ複合経営をしていると、とにかく時間がありません。

果樹、トマト栽培はほとんどが手作業の為、仕事が重なってしまうのです。

さくらんぼの収穫とりんごの摘果、夏にはトマトの収穫と桃の収穫、秋には稲刈りとりんごの着色管理など、多岐にわたって作業が重なってしまいます。

 

今、両親が健在でいるからこそ、我が家の複合経営は成り立っていますが、その両親もいずれは仕事ができなくなります。

そうなると私一人では、現状を維持してゆくことすら困難になります

それは私に限ったことではありません。

 

そんな中、一筋の希望の光が見えてきました。

 

当JAでも、農家とJAが一体となって地域農業をコーディネートするチーム、ティー・エー・シー、通称「TAC」が結成されました。

私達青年部でもTAC職員と経営や資材のことなどを話し合っています。

今、私が提案したいことは、シルバー人材や親戚に頼っている労働力を、JAが確保、農業ヘルパーとして育成し、水稲、果樹、野菜などの農繁期にJAが各農家へ派遣することです。

それにより、地域に雇用の機会が広がります。

そうすれば担い手不足の解消にもなり、個々の農家も生産効率が上がり、質の良いものが増え、JAへと出荷されていきます

実現すれば、農家の跡取りとして生まれ将来を考えている若者や、Uターンで戻ってくる人達にとっての就職先にも成り得ます

 

私は青年部と共に、JAと今まで以上に手を取り合い、連携を強め、協同の精神で助け合って暮らせる地域を目指します!

 

そして、目標はじいちゃんのように、次の、次の世代にも夢を与えられるようなカッコイイ農業をすること!

そのためには親父のようにひたむきに稼ぐことも必要です。

 

「じいちゃん。俺が増田の農業を引っ張っていぐがらな。俺がそうであったように、2歳になる息子も、俺の後を追って畑さ付いてきてるぞ。子供達が当たり前のように農業ってかっこいいな!って思うようにしてみせるがらな。もちろん、その第一号は俺の息子だよ!」

  

 

2009年1月27日(火)

【平成20年度秋田県JA青年の主張最優秀作品】

 

 

地 域 を 支 え る 方 程 式

 

 

 

JA秋田ふるさと青年部 千田 利和

  

  

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私は、現在りんご1.6haを栽培する専業農家ですが、

つい2年前までは、栽培面積は0.7haしかなく、

代々兼業農家で細々と生活している家でした。

 

兼業農家での生活を考えられなかった私は、東京の信用金庫に就職、

10年間死に物狂いで働き、生活も安定し始めた平成14年の夏、

人生を大きく変える電話がありました。

 

母ちゃんから

 

「父さんがんさなってしまった・・・」

 

胃がんで助からないとの事でした。

 

しかし、私はそのときの生活を優先し、

田舎に戻ることなど、全く考えませんでした。

ところが、当時付き合っていた嫁さんに

 

「結婚してあげるから、一緒に秋田にいこう」と言われ、

半ば強制的に秋田に連れ戻されてしまいました。

 

兼業農家として、悶々とした日々をすごしていたある日、

村の先輩から

 

「青年部さ、かだらねが?」

 

誘われ、青年部の事業に参加してみました。

 

参加するまでは、

「どうせ青年部ったて、年いった人達の集まりだべな~。

何話たらいべな~」と思っていましたが、

いざ参加してみると、私と年の変わらない若者達が、瞳を輝かせ、

技術や政策、経営論などを熱く語りあっている姿でした。

私には、みんなが英才教育を受けたエリートのように映り、

何も分からない自分が恥ずかしく、情けない思いに駆られました。

 

「農業という仕事をもっと真剣に考えてみよう」

 

そう決めた私は、会社の休みを青年部や、JAの事業・勉強会に充て、

農業の面白さ、奥深さを感じて行く内に、

 

「俺も専業でやっていきたい!」

 

と考えるようになりました。

 

最大の難問は専業でやっていけるだけの園地をどう拡大していくかということでした。

 

 

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私の住む、横手市増田町半助村は世帯数64戸、

内農家が60戸の農村地。

山と平地が混在する地域で、

先人たちが昭和初期から30年代にかけて、

標高300m、最大斜度45度の山手を、必死の思いでりんご園に開拓し、

県内有数のりんご産地として、

最盛期には、りんご生産量の6割を山手のりんごが占めていました。

 

しかし、冬には2mに達する雪と、急勾配での危険な作業を避け、

平地へと移動する農家や、高齢化のため、

山手の園地を諦める農家が目立つ様になり、

現在では生産量のおよそ4割までダウンしています。

 

そんな地域の現状の中、青年部や、座談会、消防団の集まり・・・

ありとあらゆる場所で、規模を拡大したいという思いを、

地域の人達に相談しました。

 

そんな私の思いを聴きつけた、村の高齢経営者から

 

「利和、畑増やしでぇんだって?

おらぁ、山さ上がれねぐなってきたがら、

山のりんご畑、おめぇやらねが?」

 

思わず

 

「きたーーー!!」

 

と心の中で叫びました。

 

今、りんご園として成り立っている畑であれば、

その年から収穫することも可能。

これからも、山を離れる人は当然出てくるし、

その畑を私がやる事ができれば、

専業の道が見えてくると考えていたからです。

 

村の人達からは

 

「あんな難儀などこ何でやるなよ」

「利和、頭おがしぐなったんでねが」

など、私の考えに賛同してくれる人は殆どいませんでした。

 

たしかに、誘いのあった畑は標高300mの頂上部、

最も高さと傾斜のある畑だったのです。

しかし、平地に比べ、寒暖差があり、

水はけの良い山手の方がおいしいりんごが作れると思っています。

そしてなにより、その畑から見る雄大な鳥海山と、

その裾野に広がる地域のすばらしい風景は、

今は亡き親父と、子供の頃よく、

一緒に見ていた場所だということを、思い出したのです。

その後、少しずつ山手の畑を譲り受け、

平成194月から専業農家としてスタートしました。

 

今、平地から開墾地を見上げると、思うことがあります。

 

「あそことあそこ、それにあの畑も・・もし、俺がやらねがったら、放任園になって、みすぼらしい果樹園地になってだべな~、これって結構、地域貢献だよな」

 

少し前までは、園地拡大だけを考えていました。

しかし今では、りんご農家の担い手として、

地域の畑を守っていくという使命感の方が強くなっています。

 

環境保全に目覚めた私は、出来ることはなんでもやろうと思い、

山手の草刈は大変ですが除草剤を使うのをやめました。

化成肥料から、有機肥料に切り替えました。

その中で、畜産を営む青年部盟友に、出荷はじきのりんごを提供し、

堆肥用に牛糞を貰う循環型農業にも取り組み始めました。

秋田県が認定する、{エコファーマー}の認証にむけ、申請中でもあります。

 

また、畑のカルシウム不足を補う為、

市内の有名洋菓子店から、卵の殻を頂くことにしました。

 

社長さんからも、

 

「生ごみかなり減って助かった~、仲間の店さも声かけてみるがな。」

 

と新たな環境意識をもってもらい、

そのお店では私のりんごを使ってくれるようにもなりました。

 

ここまでは、私個人の行動でしたが、

このような取組が周囲にも広がり、

今では、環境保全に取組む担い手達が増えてきています。

 

私の村にはそんな担い手による、

「ワッショイクラブ」という若者会があります。

 

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「村という神輿の担ぎ手(かつぎて)になろう」

という強い決意の表れから、5年前に私たちが立ち上げました。

3年前には、20年ぶりに村祭りを復活させ、

地域の事業にも積極的に参加しています。

 

そんな彼らと以前から、組織化・法人化に向け話し合っていました。

最近では、

 

「地域とのつながり・環境保全をどう組み込んでいくか

 

という明確なテーマができあがりました。

 

今後も農地の減少は進みます。

担い手と呼ばれる若者たちが、地域との繋がりを強め、

耕作の出来ない農地を引継ぎ、

維持管理することはとても重要なことではないでしょうか?

 

栽培面積・農家の減少を止めるということは、

JAにとっても、出荷量の維持に大きな役割を持つことになります。

放任園となってしまえば、様々な病害虫の発生源となってしまい、

ギリギリの薬剤散布で抑えている防除も、

薬剤を増やさなければならなくなってしまいます。

 

更に、温暖化問題にも大きな影響があることがわかりました。

 

りんごの木の、Co2吸収量を調べてみました。

 

林野庁や秋田県環境課によると、樹齢50年ほどで、

0.78t-c(炭素トン)というCO2を吸収、

これは、人一人が、呼吸によって1年間にはき出す量とほぼ同量の数値。

今まで譲り受けた園地には、約100本のりんごの木があり、

もし、そのまま伐採されていたら、

年間100人分のCo2を吸収することはできなかった計算になります。

 

このような問題は、私一人では微力にすぎません。

仲間・グループ・組合・法人、

より大きな集団にすることにより、効果が現れます。

 

地域の環境を守るには、個人の力だけでは、限界があります。

様々な力を結集し、心を一つにして進んでいけば、

その未来は無限大です。

 

我ら「ワッショイクラブ」には、先人たちの築いた財産を、

環境保全という観点に置き換え、地域の財産を守る。

地域の人々・JA・行政との繋がりを強め、

担い手達が地域を担ぎリードする

 

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「地域連動・農地保全型法人」

を立ち上げたいという大きな目標があります。

 

私には、3人の幼い子供がいます。

私が親父と見たあの風景を、子供達と共に心に焼き付けたい。

子供達が大人になったとき、現在と変わらない環境を残し、

次の担ぎ手(かつぎて)をつくることが、担い手に託された使命です。

 

私はこう考えます。

 

「担い手×地域=ワッショイだ!」

 

これこそが、地域を支える方程式です。

 

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